郡司 彰
ぐんじ あきら
参議院議員/茨城選挙区

○会長(関谷勝嗣君) 郡司彰君。
○郡司彰君 民主党の郡司彰でございます。
 それでは、憲法における司法の在り方につきまして、私の考え方を申し述べさせていただきます。
 申すまでもなく、我が国の統治の仕組みは三権分立であり、その下で三つの機関が相互にバランスを保ってチェックをし合う、この仕組みは民主主義を推進していく上で極めて重要な仕組みであります。問題は、その仕組みが本来想定されたような機能を十分に果たしているかどうかであります。
 我が国の歴史は、明治以来、行政が圧倒的な権限と力を握り統治してきたことは間違いありません。戦後、民主主義政治に切り替わり、立法府を国権の最高機関と位置付け、司法府、行政府とともに三権分立の機構が整備されました。
 しかし、今日振り返ってみて、果たしてそれぞれの機関が十分にその機能を果たしてきたと言えるのでありましょうか。多くの識者の指摘をまつまでもなく、行政が戦後においても事実上大きな力を持ち、立法府、司法府の力は相対的に小さかったと言えると思うのであります。特に司法はその存在感が薄かったことは否定できません。
 私は、その理由の一つは行政とのかかわりの中にあるのではないかと考えております。どのような社会、組織においても、権限の源は金と人事権にあることは否定できないわけでありますが、すなわち司法府の予算の実質的な配分権限を行政府に握られていることにあると考えているからであります。
 これは私、予算委員会のときの勉強のときに知ったことでございますけれども、象徴的な出来事が既に五十年以上前、一九五二年度、昭和二十七年度の予算編成の際にありました。最高裁判所の要求する予算額と政府が主張する予算額が異なりまして、最後まで調整が付かなかったため国会に提出する予算書には両案が記載をされ、国会に最終判断をゆだねるというものでありました。その後、国会での審議の途上において、残念なことに最高裁判所が自らの案を撤回をしたことでこの問題は終わりました。今となっては事の真相は明らかではございませんけれども、当時の会議録等によれば、政府が圧力を掛けたのではないか等々のことが言われております。
 法令上は、司法府始め独立機関の予算には配慮する規定が財政法の十七、十八、十九条にありますけれども、表向きは一見法令どおりの予算編成が行われているように思われますが、それ以降、予算書への両案の記載ということが起きていないということを見ましても、行政府優位の予算編成になっていることは否めません。
 半世紀という長い期間でございますから、一般的には両者の意見が食い違うということが数度あってもおかしくないのではないかと思うわけでありますが、ちなみに司法府と同じ独立機関であります立法府、すなわち国会の予算も行政府にその実質的な配分権限を握られている点は同様と思います。ただし、国会の予算につきましては、これまで、最後まで調整が付かず、両案が予算書に掲載されたことは記録上ございませんでした。
 話を元に戻しますが、司法の存在感が薄かったもう一つの理由は、憲法第七十九条の規定によりまして、最高裁判所裁判官を内閣が任命をしていることであります。あらゆる点について検討をし、裁判官としての識見を十分に備えている人を選んだ、公正無私な任命を行っている、当然内閣の側は言われると思うわけでありますが、しかしどんなに公正無私な人選をしようとしても、行政府、内閣の意向、考え方が入り込むことを止めることはできないと思うのであります。
 こうした状況を改善するには、例えば内閣と国会がその半数ずつを選任をするとか、あるいは国会の同意人事とするなど、人事権を内閣だけに集中させない何らかの方法を模索すべきではないんでしょうか。司法の存在感を国民の前に示し、真の意味で三権分立の統治機構が十分に機能するようにするためには、金と人事権、すなわち予算編成と任命の在り方をこの際まずは見直すことが必要と考えるものであります。
 なお、裁判官の身分保障について、裁判官の国民審査でございますけれども、この仕組みが十分に機能を果たしているとは思えないわけであります。司法の存在感が薄いがゆえにそうなのかもしれませんが、国民の大多数は最高裁判所の裁判官の氏名を知らないどころか、具体的な公判で各裁判官がどのような判断を下したのか知らないのではないかと思っております。充実した情報公開がされていない現状の下で、この制度を維持することにどれほどの意味があるのか、疑問を禁じ得ません。
 次に、最高裁判所の違憲審査とそこから派生している問題、すなわち、先ほども出されましたが、内閣法制局の存在の是非及び憲法裁判所導入論議について意見を申し述べたいと思っております。
 司法の存在感が薄いということにつきましては既に申し述べましたが、それを具体的に示しているのが最高裁判所における違憲審査で、余りに消極であるとの批判が後を絶っておりません。憲法は第八十一条において、最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する最終裁判所であると定めており、違憲審査を行うことを明らかにしております。
 違憲審査制の目的は、人権保障とともに憲法秩序の維持にあり、我が国でもそのような観点から様々な努力がなされてまいりました。そのことには一定の評価をするものでありますが、しかし、モデルとなったアメリカで見られますように、活発な違憲審査権の行使が我が国では見られておりません。最高裁判所が実際に違憲判決を下した例は半世紀を超える歴史の中でも数が少なく、中でも法律の規定をめぐる違憲判決はわずか六件にすぎないわけであります。
 さらに、憲法判断の裁判においては、これも先ほど舛添議員の方からも出されましたけれども、通常の事件に比べて判決が出されるまで極めて多くの年月を要することに批判が出されておることも事実であります。今後、成熟した民主主義社会を更に発展させていくためには、違憲審査制を活発にするとともに、判決に至る日数を可能な限り短縮をし、国民の憲法に対する親しみと理解を更に深めていくことが重要であるという意見に私も賛成であります。
 我が国の違憲審査に一定のハードルを設けることになったのは一九五二年、昭和二十七年でありますが、警察予備隊の合憲性が争われた警察予備隊違憲訴訟、昭和二十七年十月八日でございますけれども、それにおきまして、現行制度、裁判所に与えられているのは司法権を行使をする権限であり、よって特定のものの具体的な法律関係につき紛争の存在する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができるのであり、裁判所が具体的事件を離れて抽象的に法律、命令等の合憲性を判断する権限を有するとの見解には、憲法上及び法令上何らの根拠も存在しないという判断を示し、それ以後、この司法消極主義と呼ばれる姿勢を取っていることに違憲審査の数が少ない理由があると言われております。
 さらに、違憲判決が少ない理由として指摘をされているのが内閣法制局の存在でありまして、内閣が提出する全法案の事前審査で違憲の疑いが少しでもあれば法案の国会提出ができない仕組み、我が国独特の仕組みと聞いております。法案の審議権は国会にのみ与えられた固有の権限であるにもかかわらず、内閣法制局が事前審査を行い、その審査を通過をすれば法案が完全無欠であるかのような印象を与えている現在の制度、仕組みは、唯一の立法機関である国会の権限に抵触する疑いがあるのではないかとの疑義を禁じ得ません。
 民主党は、本年六月にまとめた創憲に向けて中間提言の中で、憲法解釈の機関として立法府に設置をされている衆参両院の法制局を強化し、執行機関の一部局たる内閣法制局は縮小すべきであるとしています。
 司法の消極主義の姿勢に対しても、近年、現在のアメリカ型の司法審査制度に代えてヨーロッパ型の憲法審査制を導入すべきであるという議論が高まっております。つまり、現在の我が国の違憲審査制が制度疲労を生じており、それを克服するためには現行制度を改革する必要があるという考え方であります。
 ヨーロッパ型憲法審査制の導入を主張する場合、その念頭に置かれているのはドイツの連邦憲法裁判所であることが多いようでありますが、そこでは三つの権限が注目をされております。
 一つは、具体的な権利、利益の侵害とは関係なく判断が示されるという憲法の番人としての権限。二つ目は、下級裁判所の裁判で法律の合憲性が争われた場合には裁判手続を中止をし、連邦憲法裁判所にその法律の合憲性の判断を求めるもので、法律の合憲性の判断の権限を連邦憲法裁判所が独占をするというものであります。
 三つ目は、公権力によって基本権などを侵害された者が、他の法的救済を尽くした後に、最後の手段として連邦憲法裁判所に提訴することができるというものであります。
 今日、我が国で議論されている憲法裁判所制度導入論では、これらの三つの権限を有する憲法裁判所を憲法改正によって導入、創設すべきであるとする議論を中心にその他様々な考え方があるようでありまして、資料にも記載をされておりました。
 民主党のさきに述べました中間提言では、内閣法制局を縮小すると同時に、現在の司法裁判所に充実した憲法審査部門を設けるか、あるいはヨーロッパや韓国などが取り入れている憲法裁判所若しくは憲法院など違憲審査のできる固有の審査機関を新たに設置することを検討すべきであるとしています。
 しかし、この問題を考える際に、何よりもまずそうした制度の導入、あるいは新しい機構を創設をすれば現在の消極的な状況が改善するのか否か、改善をするとすればどの程度改善するのかなどなどの検討がまずなされることが必要と考えております。
 一般的に、我が国では、ある仕組みや制度、システムがその機能を十分に果たしていないという指摘や批判が行われますと、その組織、機構を変更、改廃しようという方向に力が動いているわけでありますけれども、しかし必ずしも根本的な解決にならなかった例も多いこともあったわけであります。ヨーロッパにはヨーロッパの長い歴史があり、そこではぐくまれてきた風土や思想が根底にあって今日の各国の法律や制度など社会の仕組みができ上がっているわけであります。ヨーロッパと一概に一くくりで言えないそれぞれの国の歴史もあることも事実でございます。同様に、我が国においても長い間に社会の隅々にまでしみ込んでいる考え方や社会の仕組みがあります。そうした人々の物の考え方や風土、歴史を基盤に据えた仕組み作り、制度作りを行っていくことが必要ではないかと考えております。
 戦後、急激な変化の中で、司法制度についてはアメリカ型の司法審査制を導入したわけでありますが、今日それが十分に機能しないからといって、今度はヨーロッパ型の制度を導入して果たしてうまくいくと言えるのでしょうか。今は現在の制度をいかに有効に機能する制度として定着させていくかの努力を図っていくべきだと思っております。私は、我が国においては、劇的な組織、機構の変更、改廃よりも、問題の所在を明らかにしつつ、我が国の歴史や人々の物の考え方の中で実質的に機能するにはどうしたらいいかを検討し、法律上の明確な規定が必要な場合には新たな立法措置を施すなど、機能不全に陥っている要因を一つ一つ取り除くことにより力を注ぐべきで、組織、機構の変更、改廃は最後の手段とすべきではないかと考えております。
 また、我が国のキャリア裁判官制度が違憲審査制の運用に影響を与えているという見解もあるようでありますけれども、キャリア裁判官の問題を即ヨーロッパ型憲法審査制への転換に結び付けるのではなく、その前にまず現行憲法の下で実質的に違憲審査の活性化に結び付くような法令の見直しによる事態打開の可能性を視野に入れて考えるべきではないかと思っております。
 蛇足を承知で付け加えますと、この日本の歴史の中でも劇的な変化を遂げたことももちろんあるわけであります。しかし、その際は、外因かどうかは別にして、国の形、価値観が一変をするような際に起こっているようなことでございまして、現下の状況の下で司法の改革だけが本当に劇的な変化を遂げられるのかどうか、政治の今の在り方も含めて疑問を持っていることも付け加えさせていただきます。
 以上でございます。

第5回憲法調査会(2004年11月24日開会)

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